2020年10月7日水曜日

リパライン語とエクリチュールの企み(序)


エクリチュールと◯◯

最近、内田樹さんの『街場の文体論』を読んだ。この本は著者の最後の講義の講義録らしく、『レヴィナスと愛の現象学』と『他者の死者―ラカンによるレヴィナス』に続いて読んだ三冊目の本であった。この本で扱われているバルトのエクリチュール論に関してブログの記事で読んだことで興味を持って買ったのであったが、レヴィナス愛が勝って『倫理と無限―フィリップ・ネモとの対談』まで手に入れているうちに読むまでに時間がかかってしまった。

やはり面白かったのは第七講「エクリチュールと文化資本」、第八講「エクリチュールと自由」であった。エクリチュールとはフランス語で「書かれたもの」の意であり、バルトがテクストを構成する言語を三つの層で説明したうちの一つである。一つがラング(言語)、もう一つはスティル(文章的選好)である。エクリチュールは「社会的に規定された言葉の使い方」であるらしい。ラングとスティルは個人が選択することは出来ないが、エクリチュールには選択できるものの一度選択すればその檻からは出られなくなるという性質がある。

気づき

これに関して読んでいて、自分のリパライン語創作を見返して思うことがあった。


これまで、悠里の言語創作で作られてきたものはラングもしくはスティルであった。この二つは選択できないものだ。規則化され、近代的理性において整理された言語――ラングの創作という段階はもう私の中では陳腐化した(とはいえ、終わったわけではない。Lineparine Disocordがあるということは、問題は山積しているのである)。スティルは作者の歴史的経緯から素朴に作られてきたか、悠里ではあまり焦点を当てられなかった。そもそも、スティルの次元は言語創作というより、「創作世界内の文学」創作へと舵を切っている。異世界の文学創作には十分興味があるが、今ここでは取り上げない。

リパラオネのエクリチュール

私が目指してきたのは「リパラオネのエクリチュールの確立」だったのではないか、というのは上のツイートの引用で述べた。何故、そういう経緯になったのか。それはさまざまな個性的なエクリチュールに対する憧憬であった。無批判的なミーム的広がり、思索的親和性、関心。それと対照に「リパラオネ的」という観念には殆どそういった焦点が向けられてこなかった。実際にリパラオネ的なものが具体的に個性的にどのように存在してきたか、そもそも個性的なものがリパラオネにあるかという疑問は常に自分の中にあった。バルトを知って、ここに来てリパラオネのエクリチュールへの方法について考えたくなったわけである。
もちろん、英雄叙事詩や神話類型論、フレイザーなどを読んできてリパライン語独自の文体と文学作品を確立しようという目標もある。これはリパライン語の多岐にわたる栄養となるだろう。そして、私は元々自分が持っていた「リパライン語とは何なのか」という問いに答えることになると信じる。

沸騰するエクリチュール

まず、鍵となるのはエクリチュールに対するバルトの態度である。バルトはマルクス主義的な立場に立って(当時のフランス知識人がマルクス主義的な思考をするのは珍しくなかった、サルトルやメルロ=ポンティを見ていると良くわかる)、エクリチュールを階層の再生産装置と見なした(らしい、原著をまだ読んでないのだ)。内田さんのブログでは以下のように書いてある。

ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。

スティルでもラングでもなく、エクリチュールを対象に選ぶのはまずもってこれが所以である。「リパラオネとは何なのか」という問いに答えること、それはリパライン語のエクリチュールの創造によって果たされると内田さんの著書を読んでいるうちに考えるに至った。バルトの著書『零度のエクリチュール』の目的の一つは、エクリチュールを階層の再生産装置と見なして、それを零度化(階級の再生産装置たらないエクリチュール)としようとすることであった。私はこれを逆手に持って、独自の階層としての「リパラオネ」のエクリチュールを見出すことに用いる。零度のエクリチュールではなく、沸騰するエクリチュールを目指す。



この「リパライン語とエクリチュールの企み」という悪巧みが目的とするところはそういうことである。