2021年12月6日月曜日

"Xelken xel ken"をどう訳すのか?

この記事は 悠里・大宇宙界隈 Advent Calendar 2021 の7日目の記事です。

 

 翻訳論について最近色々と調べたり、本を読んだりしていた。何故かというと、小説家になろうのファンタジー小説の作者たちがtwitterで言葉遣いや言語設定の指摘(例えば、「異世界サンドイッチ」のような問題だ)に対して、「この作品は異世界語から読者が分かりやすいように訳した作品なのだ!」という“名案”を思いついて、繰り返していたからだ。

 疑問に思うことは翻訳しきれないものが現れないところである。


 上記は「アレン先生」の一節だが、原語である"Mal...... Lurn co es len vilaija zelx edixa lu lerxne dira e'l?" "Ja, mi es ALEN.vilaija."という会話の翻訳であるということになっている。リパライン語において"len"は「~先生」を表す言葉なので"alen.vilaija"(アレン・ヴィライヤ)という名前を"len vilaija"(ヴィライヤ先生)と聴き間違え(?)ており、原語だとユーモアな場面なのだが、日本語だと「先生」と「アレン」は音声的に重ならないので、もちろん翻訳しきれていない。
 訳者の能力が低すぎる? そうかもしれない。だが、翻訳だというのなら、良く分からないところや何が面白いのか分からないところがあっても良いはずである。

 もう一つ例を上げるておこう。「帰ってきたヒトラー」の一節だ。冒頭ではヒトラーが現世に転移して、キオスクの店主に助けてもらうのだが、「鏡が欲しい」というヒトラーにキオスクの店主は雑誌を渡して、ヒトラーはその雑誌の鮮やかな表紙を自分の顔を確認した気になってしまうというコミカルなシーンがある。これも日本語だけで見るとキオスクの店主がヒトラーに意地悪をしているだけに見えるが、ドイツにはデア・シュピーゲル(Der Spiegel)という雑誌があり、これはドイツ語で「鏡」という意味だ。つまり、店主はヒトラーに「鏡」をしっかり渡していたのだ。
 この場合、訳者は「鏡という名前の雑誌を渡した」と書けば良かったのだろうか? このシーンの面白さはDer Spiegelという単語の二重性であり、それが表面的に明示されないことにある。方や単なる普通名詞と人口に膾炙した週刊誌の名称が重なって、ユーモアになっている。この点を日本語にするなら「朝日が登ってきた」と早朝に言って、実際は新聞配達が坂道からバイクで登ってきたとでも訳せばいいだろうか。しかし、それでは同化的翻訳の極みである。
 この通り、訳者は「<鏡《シュピーゲル》>」として、その後に〔〕を続けて注釈を書くほか無かったのである。

 現世ならともかく、異世界なら十分に翻訳できない事柄が考えられるだろう。だが、“名案”では日本語の慣用句や文化的な言葉で全て説明できるとする。

 この名案は翻訳に対する偏った考えを反映していると思える。翻訳は原典と完全に交換可能であり、翻訳において新たに生み出されるもの――価値など無いという考え方だ。だからこそ、「ファンタジー小説」は日本語へと完璧に翻訳することが出来る。しかしそれは果たして異世界だろうか?
 まあ、確かに地球からの影響や偶然一致・収斂進化を適用できるかもしれないが、まずもって「面倒な指摘」の議論にそこまでして乗ってやる必要はあるのだろうか?

 「翻訳の倫理学―彼方のものを迎える文字」(アントワーヌ・ベルマン著、藤田 省一訳)では、「自民族中心主義的翻訳」というものが紹介されている。起点言語から目標言語に対して、内容を同化するような翻訳はあまりよろしくないというのだ。これに基づいて先の「ファンタジー小説」の日本語翻訳論を検討すると、完全に翻訳できること=同化以上に同一を前提とした議論ということになる。だったら異世界で書く理由は何なのか?となってしまう。抽象的には異世界も日本も同じである。しかし、原理的な話をするなら、おそらく「異世界もの」が「異世界」である必要は、異的なものに対する欲求ではない。それは前々から言われてきているとおり、読者に共通の認識基盤を提供したり、現世をリセットするための要因として使われているだけであって、異なるものの他者性を楽しむなどということは「一般の異世界もの」に望まれていないわけである。

 もしそうであるなら、やっぱり議論は一周して同じ答えを示す。「面倒な指摘」の議論に乗ってやる必要はない。
 しかし、いつまで経ってもファンタジーを書くWEB小説作者たちはこの議論と「この作品は翻訳なのだ!」という答えを繰り返している。確かに自分の作品の価値を貶められたら、反論したくなる気持ちもわかる。だが、これでは逆効果だ。貶められ方に作品を矯正して一体どうするのだろう? 或いは指摘を真っ当なものと認めているならば、先の議論に戻るだけだ。
 ところで、本当にそんな指摘をする連中は居るのだろうか?この類の議論で実例が表されたことは少ない。まあ、実を言うと、私は一回は見たことはある(そのときは作家の方を支持した)のだけれども、名案礼讃は過剰反応のきらいがある。

 この文章で言いたいことは「お前らもっと言語に興味を持てよ」ではない。あなた達の作品に与え(られ)た目的から外れた指摘なんか無視してしまえ、という些細な提案だ。あなたが蔑視するほどのろくでもない指摘に時間を掛けるくらいなら、その間に作品を書いたほうが時間の有効利用になる。また、そういうふうな指摘をする人は、是非芸術言語や異世界の細かい設定を作って、自作の表現を深く考え込むといい。きっとどちらも良い作品が書けるはずだ。
 自分がどちらか分からない? 簡単に分かる次の例題がある。



 "Xelken xel ken"は「シェルケンはケンを見る」でも「シェルケン、シェルケン」でもない。

 あなたは訳に悩むことに価値を見いだせるだろうか?